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大学における「ビジネス・エシックス」の講義の様子

 「ビジネス・エシックス」の講義について

 筆者の担当する「ビジネス・エシックス」は3年生以降の配当で、受講者は130名ほどになる。経営倫理を字義通り解釈するなら、経営学+倫理学の学際の学問といえる。経営倫理を教育するにあたり、経営学的側面と倫理学的側面のバランスのとれた教育をしていく必要があるだろう。

 学生は1、2年生の間に経営学の基本的か教育を受けていることから、本科目では主に倫理学説の理解に時間を割いている。講義では功利主義、義務論(カントの倫理学)、徳倫理、正義論など倫理学説を網羅する形で進められる。ただし、本科目で倫理学説はあくまで経営倫理学を理解するためのツールと考えており、哲学科専攻の学科のように倫理学説史の詳細な習得というねらいはない。倫理学の学説を現実社会に応用する応用倫理学の視点で学ぶことが受講者に求められており、講義の中で受講者は常にこの学説はどのように実社会に用いられているのか、その際の課題は何なのかを考えることが要請される。

①  講義スタイル

筆者の講義では受講者が100人を超える場合でも、毎回必ずグループディスカッションを入れるようにしている。デイビスらの著書「授業をどうする!―カリフォルニア大学バークレー校の授業改善のためのアイデア集」は、大学の授業改善のヒントが数多く記されている。筆者もその中からいくつかの手法を授業改善に生かしている。教員が講義時間すべてで一方的に話をするのでは、受講者は初めのうちは真剣に聞いていても、次第に飽きが出てくる。1時間30分の講義時間は、実は社会人でも集中力を持続させることは難しい。そのような講義を1日に3つも4つも連続で受講してみれば、集中力が続かないのもいたしかたないことといえる。上述の書では、そのような講義における工夫の一つとして、講義をいくつかのパートに分ける授業実践例が挙げられている。

筆者の講義でも、教員の一方的トークのパート、グループ討議のパート、全体討議のパート、リアクションペーパーの記入のパートと、いくつかの時間に分けることで受講者にとってメリハリのある構成にしている。

教員のトークの部分では、新しい知識の伝達が主たる目的となる。教科書に記載していることは読めばわかることなので、講義では教科書の知識を前提とした具体的事例や、教科書では描き切れていない理論の深い部分を解説する。教科書では無味乾燥に描かれている理論や事例を、生き生きとした形で表現することが教員に求められるものであろう。

たとえば、カントの義務論の説明をした後で、「殺人者から逃げている若い女性を君は自分の部屋にかくまってあげるか」という問いを学生にする。学生は「かくまってあげます」と答えると、次にその学生に「逃げてきた人を自分の部屋に隠れさせた後、大男が金属バットを持って君の部屋を訪れた。その大男が、ここに逃げてきた若い女が隠れていないか、と聞いてきたら君はどう答える」と聞く。学生は「ここにはいません、と答えます」という。そうすると、「ここにカントがいれば君のことを、嘘つき!となじるだろう。カントなら、扉を開けて、お探しの女性ならここにいますと、と答えるんだ。まるで吉本新喜劇のようだろ」とカントの有名な殺人者の問いかけについて解説し始める。教員のトークの部分も理論の解説だけでなく、時に直接話法を用いた、光景が目に浮かぶ話し方をすることで学生にとっても納得しながら解説を聞くことができる。

②  グループ討議

グループ討議についても、受講者が討議しやすい環境づくりに腐心している。大教室では椅子が固定式の場合が多い。その場合は5人のグループを作らせ、後ろに3名、前に2名の形で着席させる。前に座る学生は隣の席とひとつ空けて座る。これは前に座る学生がグループ討議の時に空席側に足を入れて、後ろ側に座る学生と話がしやすいようにするためである。座席は全席指定であり、学期中に3回ほどグループ替えを行う。自由席の場合、いつも友人と隣り合わせに座ることが多く、議論に真剣さが失われる。学年も学科も異なる学生と話をすることは、最近の学生にとってはほとんどないらしく、授業アンケートにおいても初めての人との討議経験が就職活動にも役立つとの回答が多く寄せられている。

次にケースの事例をひとつ紹介しよう。義務論と功利主義の講義を終えた後、学生に下記のケースを配布して、読ませる。本稿では理論解説のための仮想の事例を挙げたが、講義では企業不祥事を扱ったより具体的な事例の討議も多く行っている。

 

「討議事例 サバイバル・ロッタリー」 

資料作成:中谷常二

 今から50年後の世界です。

 その社会では臓器移植の技術が完全に確立されており、臓器移植は盲腸の手術ほど簡単なものになっている。DNA操作技術により、移植した臓器の免疫の問題も全く起こらないので、他人の臓器でも適合性に問題はなくなっている。

 しかし人工臓器の技術や死体からの臓器移植の技術は確立されてこなかった。そのため臓器に致命的な病状や損傷のある患者は、健康な人の死亡直後に臓器を摘出して、移植しなくてはならない。

 移植技術は発展したものの、臓器の治療技術はあまり進歩しなかったため、その時代でも臓器の事故や病気による損壊のため死ぬ人は死因の第一位となっている。

 そこで政府は新しい法律をつくることを考えた。

 その法律とは以下のようになる

 1. 公平なくじで健康な人をランダムに1人選び、殺す。

  1.  その人の臓器を全て取り出し、臓器移植が必要な人々に配る。

一人の健康な人からは、心臓、肝臓、腎臓、膵臓、胃、小腸、大腸など様々な臓器が摘出できる。それゆえ、くじに当たった1人は死ぬが、その代わりに臓器移植を必要としていた患者が最低でも20人助かる。

このくじには全国民で成人に達した者が登録される。くじ引きは完全な公開で行われるため、不正が起きることはない。

また選ばれた健康な人の遺族には謝金として1億円支払われる

このくじは毎月1回、50人の人間が選ばれ、年間600人になる。ちなみに癌などによる臓器の損壊による死亡者は年間13000人に及び、サバイバル・ロッタリーによって救われる予定の12000人とほぼ近い。

問1 皆さんはこのくじの法律に賛成しますか、反対しますか。

その理由はなぜですか。

問2 1名を殺すことで2千人助かる場合、このくじの法律に賛成しますか、反対しますか。

   1名を殺すことで2万人助かる場合、このくじの法律に賛成しますか、反対しますか。

   その理由はなぜですか。

問3 テロリストが大都市に向けて猛毒ガスのミサイルを発射しようとしています。もし発射された場合、少なくとも100万人が死亡します。そのテロリストは要塞のような島に50名の人質をとって立てこもっています。このテロリストのいる島に空爆すると人質は全員死亡しますが、毒ガスのミサイルは発射されることなく消滅します。

 もしあなたがその大都市に住む市民なら、島への空爆に賛同しますか?反対しますか?

また、もしあなたがその人質の立場なら、島への空爆に賛同しますか?反対しますか?

  その理由はなぜですか。

 

このケースは倫理学者ジョン・ハリスによって考案された思考実験を、筆者がより討議しやすく改定したものである。問1「皆さんはこのくじの法律に賛成しますか、反対しますか」という問いには、ほぼ全部の学生が反対する。理由としては、「人を殺してはいけないから」、「自分が病気で死にそうでも、人の臓器はいらない」などが主なものとしてあげられる。しかし続いて問2「1名を殺すことで2千人助かる場合、このくじの法律に賛成しますか、反対しますか。1名を殺すことで2万人助かる場合、このくじの法律に賛成しますか、反対しますか」の場合、グループの議論が紛糾してくる。2万人助かるなら、一人殺すこともよいのではないかという意見がちらほら出てくるからである。しかしグループの決断としてはほとんどのグループがそれでも反対にまとまる。

続く問3のテロリストの問いでは、問題文を読んだ途端に、教室からどよめきが生まれる。テロリストの問いをイメージしやすいように、この問いの元ネタとして「ザ・ロック」という映画を紹介する。アルカトラズ監獄島に立てこもったテロリストが人質をとってサンフランシスコにミサイルを撃ち込むと脅すことで、身代金を得ようとする話である。この話の部分をした後、「だからといって、この問いの回答として、その映画の主人公であるショーン・コネリーとニコラス・ケイジに任せる、というのは結論としてはいけません。そうすれば身代金を払わずとも、サンフランシスコの街も人質も助かるのは、ご想像のとおりです。でも今回の問いでは、ショーン・コネリーとニコラス・ケイジもいないものとして、考えてください」という言葉を加える。笑いとともに、ここで決断することの難しさを、学生は認識することになる。

先ほどまで強硬にサバイバル・ロッタリーに反対意見を出していた学生が、大都市の住民の立場としても人質としても空爆に賛同することが多い。そこで学生に、問2の2万分の1の確立と同じだよ、と話しかけるとうーんと唸る。サバイバル・ロッタリーでは2万人が助かるために1人殺すということは許されないとしていても、テロの事例では進んで殺すのを容認してしまう自分の思考の孕む矛盾に直面して、改めて理論的な一貫性はどのように保つことができるのか思考を働かせることになる。義務論と功利主義の拮抗についての理論的な解説では十分理解できていない部分も、このようなグループディスカッションを通じて主体的に考えることで理論の理解がはかどるようである。

③    全体討議

全体討議では、グループで出した結論についていくつかのグループに発表してもらう。その発表について教員としてさらなる問いを重ねていく。「20人を助けるために1人を殺すのはいけない、と君たちのグループは結論付けていながら、2千人を助けるためには1人を殺してよいとする。いったい何人から殺してよくなったのか?」、「2千人を助けるためでも、1人を殺すという行為はいけない、と君たちのグループは結論づけた訳だけど、2千人を助けるために1人を放置することで見殺しにするのはどうだろう?」など学生が回答に窮するような質問を即興で出していく。ここでもう一度グループ討議の時間を作る場合もあるし、理論の詳細な解説をしていくこともある。ケースについての倫理学説の解説を踏まえて、論考することによって、学生は多様な気づきを得るようである。

講義では決してケースの正解を単純に結論付けて、学生に示さない。正解を与えることは、その時点での思考の停止を意味する。倫理学とは哲学の一種であり、その本質は善さへの問いかけという働きの連環である。批判的思索と哲学的反省の反復によって倫理観の涵養はなされる。本ケースでも功利主義の長所と短所、義務論の長所と短所を行ったり来たりしながら、では本当に正しいことはいったい何なのかを考えてもらうことが、その最終的な目的となる。善いと判断してやったことであっても、後から考えると適当でないこともあるかもしれない。また、矛盾する2つの倫理的要請があり、それらを両立させて対応することができない場合もある。そもそも倫理学という学問は唯一絶対的な善があり、それについての研究をしているわけではない。倫理学説の数だけ善と悪があり、そのいずれが論理性、普遍性において妥当であるか検証する学問といえる。倫理学においては、正しさは無数にあり、そこから真に正しいものを選択していくという覚悟をもつ必要がある。その覚悟を認識させることが、筆者の講義の第一義である。

そのうえで筆者は学生に対して、判断に迷う場合の意思決定のヒントとして、アリストテレスの徳倫理学を講義している。

アリストテレスのいう倫理的な徳というのは、状況にふさわしい仕方で行為しようと欲し、また欲することでふさわしい仕方で行為するということができるようになった状態、とされる。楽器を演奏する人は上手に演奏しようと欲し、そのために練習を積むことで上手に演奏できるようになる。アリストテレスは人間の徳というものも、このような実践することで身につけられるものであり、実践することでよりよいものになっていくということから、徳を実践知(フロネーシス)が発揮されたものとした。この実践知を身につけるためには、楽器の演奏同様、知識を身につけるだけでは不十分で上手な人の手本を見て、徳の場合はすぐれた徳をもっていると思われる人を手本として、学んでいくというやり方がふさわしいとアリストテレスはいう。

学生が社会に出てから自分の目標となる人を見つけ、その人物をまねていくことで、その人物のようなよりよい人間になれるというわけである。そういう観点からはOJTのように、先輩や上司から実践的に学んでいくという日本の職場の在り方はアリストテレスの徳倫理的には実践知の習得にふさわしいともいえよう。学生の一人一人がよりよい社会人になることを欲し、それを実践しようと日々心掛けることが、経営における倫理の確立の第一歩になると信じている。

 

おわりに

学生アンケートをみると、倫理学を学ぶことで日常的に感じていることの概念整理になり、とても興味深く受講してくれているようである。さらにいうと筆者の講義はケースを使った討論もあることから、学生が主体的に参加できることもあり、概して満足度も高いようである。

経営倫理科目は、その科目名からして学生の身が引けている。そこで筆者としては常に楽しんで講義を受けてもらうように最大限の配慮をするようにしている。そして哲学、倫理学の面白を少しでもわかってもらえればさらに嬉しい。哲学は2000年以上も人類が営々と築いてきた学問である。それが面白くないはずがない。

学生が経営倫理科目を楽しく受講して、経営における倫理的判断の礎となる知識を習得し、その上で自身の倫理観の涵養に役立ってくれるよう切に願って講義を組み立てている。近畿大学の学是である「人に愛される人、信頼される人、尊敬される人の育成」を育成する重要な科目の一つとして、今後も経営倫理の講義を続けていきたいと考えている。

 

『経営倫理』№ 74、2014年4月発行、経営倫理実践研究センター、掲載の『近畿大学経営学部における経営倫理教育』からの抜粋。全長版は本書をお取りよせください。

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