講義抄録『新しい公務員倫理の考え方』
これまでの公務員倫理研修は、公務員にルールを守らせ、不祥事をおこさせないようにすることが主たる目的とされてきた。しかし、この取組は重要なことではあるが、不祥事とは無縁の大多数の公務員にとってはあまり意義あるものとはいえない。
普通に法令を守り、不正を犯さない職員にとっても有意義な公務員倫理研修の在り方はないのであろうか。ここに「新しい公務員倫理」の在り方を提案したい。「新しい公務員倫理」は、コンプライアンス・アプローチの次のステップになる。公務員がよりよい行政について考えるための思考法、価値観を身につけ、これを習慣化させることにより、その実現をめざすものとなる。
◆トロッコ問題という思考実験
ここでトロッコ問題という倫理学においてよく知られる思考実験を紹介しよう。次のケースを考えていただきたい。
「線路に五人が縛り付けられているところに、暴走する列車が突入しようとしている。もしあなたが何もしなければ、この五人はひき殺されてしまう。助ける唯一の手段は、線路の切り替えスイッチをあなたが操作することである。しかし、線路が切り替わった先にも、一人が縛り付けられている。さて、あなたはスイッチを切り替えるか、それとも何もしないか。」。
米国での調査ではこのケースの場合八割の人がスイッチを切り替える。では次のケースではどうだろうか。
「先ほどと同様の状況において、あなたは線路の上にかかる橋の上におり、そばには見知らぬ大柄な男性がいる。この男性を橋から突き落とせば、男性の体がブレーキとなって、列車は停止して線路上に縛られた五人の人々は助かる。しかし、突き落とされた男性は死亡してしまう。さて、あなたは男性を突き落とすか、それとも何もしないか。」。
このケースについてはおよそ二割の人が突き落とすという選択をする。五人を助けるために一人を殺すという点は同じでも、スイッチと比べて突き落とす人は極端に少ない傾向があることがわかる。
この思考実験ではどちらが正しい、誤っている、ということが問題ではない。政策を進める中では、ここで問題になっている、公益のために少数の者が不利益を受ける功利主義が用いられることがある。功利主義の考え方を吟味することもこれからの公務員には必要といえる。
◆功利主義をより深く考える
功利主義の考え方は一言で言い表すと「最大多数の最大幸福」となる。功利主義では、ある行為の善悪はこの理想的状況に近づく結果をもたらすかどうかの効用を計算することによって判断する。しかし実際の政策を行う際には、人命、景観、文化など一元的に金額換算することが難しいものを扱う。効用を計算するための数え方や計算方法などもはっきりしないものを比較しなければならない。
例えば、ダムを建設する計画が持ち上がり、経済的には有効であると試算され、多くの住民が歓迎している場面を考えてみよう。他方、湖底に沈む集落の住民は反対しているという状況がある。これは公共政策的によくあるテーマであるが、功利主義的には、ダムを建設するのが正しいとなるが、そこでは反対している人の事情や心情は十分に計算されているとは言い難い。
公務員の立場で、倫理的な判断が要請される時に、どのように考え、判断するべきなのかを問いかけていく。そうすることで思考の水路を広げていくことがここでいう「新しい公務員倫理」である。
◆ふたたび、トロッコ問題へ
ジョシュア・グリーンという米国の哲学者・心理学者の研究を紹介しよう。人間の脳は道徳的問題に対して、直観的反応や情動的反応にかかわる自動的で素早い心の働きである「オートモード」と、論理的思考や合理的判断のような熟慮を要する心の動きである「マニュアルモード」の二つの働き方をする。トロッコ問題における橋の上の男のケースでは、スイッチの操作ではなく素手で人を殺すという行為であるため、直観的に人を殺してはいけないという「オートモード」の規範が働いている。
しかし、百万人を助けるために一人を犠牲にする場合を考えると、直感的な「オートモード」による判断だけでは不十分ともいえる。倫理的問題については「マニュアルモード」のように論理的思考や合理的判断のような熟慮が要請されることも公務員は認識しておかねばならない。
◆おわりに
近年の現実主義、合理主義的傾向により政策評価は、数値的に効用を測りやすい分野にのみ焦点が当てられてきている。一方、功利主義的な判断は時には人々の抱く倫理観に反する場合もある。
倫理学においては、普遍性と論理性が求められ、皆が納得できるように合意形成していく必要があるとされている。いずれにしても、何が正しいかを考えながら、一歩ずつ倫理の階段を上がっていくことが必要である。人類に共通の倫理観、道徳的規範が存在するはずであり、公務員倫理もそこをベースに考えなければならないだろう。
『人事院月報』№ 810、2017年2月発行、人事院総務課広報情報室、掲載の講義録『公務員倫理の倫理について考える~さいたま市・岐阜市・松山市でのセミナーの概要』からの抜粋。全長版は本書をお取りよせください。